アルゼンチン
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国   名 面積
(1,000平
方キロ)
人口
(100
万人)
主要言語 首  都 独立年月 国民総所得
(GNI)
100万米ドル
1人当り
GNI
米ドル
通貨単位 英語による名称
アルゼンチン共和国
2,780
37.03
スペイン語
ブエノスアイレス
275,547
7,440
ペソ
Argentine Republic
国名

正式名称は、Republica Argentina(スペイン語: レプブリカ・アルヘンティーナ)。通称、Argentina(アルヘンティーナ)。

公式の英語表記は、Argentine Republic(アージェンタイン・リパブリック)。通称、Argentina(アージェンティーナ)。
日本語の表記はアルゼンチン共和国。通称アルゼンチン。他にアルゼンティンとも表記され、漢字で亜尓然丁、亜爾然丁、阿根廷のように表記される。近年では、アルヘンティーナと表記されることも少なくない。
国名は、ラテン語で「銀」を意味するArgentumに因んだ名称である。独立時はラプラタ連合という国名だったが、この元となったラプラタ川 (Rio de la Plata)は、スペイン語で「銀の川」を意味する。 国名をラプラタから変えたのはスペインからの圧政を忘れるためである、国名とともに銀もla plataからArgentumに変えた。

歴史

この地の山岳地帯やパンパと呼ばれる草原には、インディオが居住していたと言われる。

1516年 スペイン人フアン・ディアス・デ・ソリスがラ・プラタ川河口到着
1541年 スペイン人ブエノス・アイレスを建設したが、先住民との抗争によってブエノスアイレスを放棄
1573年 スペイン支配確定
1580年 ブエノスアイレス再建。本格的な植民地化。
18世紀 今日のアルゼンチンと、ボリビア、パラグアイ、ウルグアイを含んだ地域がスペインの副王領に(リオ・デ・ラ・プラタ)として組織化された頃から経済は活気づき、首都ブエノス・アイレスの港は本国との交易によって繁栄した。
1810年5月25日 自治移行(革命記念)
1816年7月9日 ラプラタ連合の独立を宣言
2006年7月9日 独立190年記念式典挙行

ロサス政権

1841年 フアン・マヌエル・デ・ロサスが政権を掌握
1851年 ロサス戦争
1852年 カセロスの戦い、ロサス亡命、フスト・ホセ・デ・ウルキーサが大統領に就任

連邦制と経済発展

1853年 連邦制の憲法が制定。
1862年 アルゼンチン共和国誕生
1864年 三国同盟戦争(パラグアイ戦争)
1920年代 冷凍船の導入で畜産物輸出が好調。
1930年代 世界有数の富裕国に成長するが、一方で浪費がはびこり、都市と地方の貧富格差が拡大した。

ペロン軍事政権

1943年 ホアン・ペロンら軍事政権樹立。
1946年 大統領当選。この時すでに二番目の妻エバ・ペロン(エビータ)と結婚している(1952年7月死去)。(エビータは南米では超がつく有名人であり、特にアルゼンチンでは一部の人間が聖女のように崇めている)
1951年 中立政策を採りOASより脱退
1952年 再選
1955年 アランブル将軍のクーデターで追放。アルゼンチン、OAS復帰。
1958〜1962年、1963〜1966年の急進派を除き軍事政権。
1973年5月 民政移管後ペロンが復権
1974年7月 ホアン・ペロン死去。3番目の妻イザベルが大統領になる。
軍事政権
1976年3月 イザベル、軍事クーデターによって罷免。ビデラ政権となる。
1982年 イギリスが統治していたフォークランド諸島(マルビナス諸島)をめぐって、イギリスとの間にフォークランド紛争が起きる。

軍政から民政へ

1983年 軍政から民政への移管が行われる。
2003年5月、キルチネル大統領就任。


政治

大統領を元首とする共和国であり、首相を長とする内閣、上下二院制の議会を備える。しかし、相次ぐ国軍の反乱等に見られるように、歴史上、『中進国』とされる国々の中では最も政情の安定していない国の一つであり、この政情不安定さは1983年の民政移管後の失政や最近、2001年11月の経済破綻等、一連の経済不安や現在の極度に拡大した貧富格差の元凶とされている。 政党は現在の与党、ペロニスタ党の他、急進党などがある。

1946年、大統領に就任したペロンは、工業化、鉄道などの国有化、労働者保護などの政策を推し進めた。また、離婚法を制定したことからカトリック教会との関係も壊れ、1955年の軍部蜂起で亡命した。
1962年、1966年と2人の大統領が軍部のクーデターで失脚させられ、軍部が実権を握ったが長続きしなかった。
1973年には、ペロンが帰国し、再度大統領に就任した。しかし、病に倒れた。
1982年、ガルチェリ大統領は、イギリスが1833年以来の領有を主張しているマルビナス諸島(英語名:フォークランド諸島)を奪還しようと占領し、戦争を始めたが、イギリスの反撃に遭い失敗した。そのためにガルチェリ大統領は失脚した。
1983年、大統領選挙と議員選挙が行われ、急進市民連盟のアルフォンシンが、アルゼンチンに民政を回復させた。1989年辞任した。
1989年、大統領選挙で正義党(ペロン党)のメネムが当選した。